医院を譲り受けたい継承開業
医院を譲りたい医院譲渡・売却
第6章
運命の第三者医業継承
「澁江整形外科」は、継承開業から早くも10年が経過し、地域の人びとにとって頼れる診療所となっていた。
診療所は、開設からすでに24年が経過していた。施設の老朽化だけでなく、新しい医療機器を導入しづらい構造となっていることが、院長の澁江義朗を悩ませた。
次第に義朗のなかで、診療所の新築移転への思いが動きだしていく。当時、澁江整形外科のような有床診療所は、運営に厳しい面が生じており、何よりスタッフに大きな負担がかかっていた。
2003(平成15)年の春、義朗は決断した。
「移転して無床の診療所を新築しよう」
決断の背景には、篠﨑家のご子息が成長して勤務医になっており、賃貸収入が途絶えても経済的には大丈夫ではないかとの判断もあった。
何事もひとたび決めれば、あとの動きは早い義朗のこと。この際も、計画は次々と具体化していった。移転先の候補地は、医療機関の建築で実績豊富なハウスメーカーを通じて適地を探して、その中から選んだ。
彼が選んだ場所は、澁江整形外科と目と鼻の先だった。
澁江めぐみは、手際よく物事を決めていく夫をそばで、終始頼もしく見ていたが、この移転先の決定については、少し不安を覚えた。
そして、その不安は的中した。
移転計画がほぼ本決まりになって、その旨を伝えに篠﨑家を夫婦で訪れた際のことだ。
対応したのは、父と同じ整形外科医となっていた故・篠﨑正俊の長男・篠﨑俊郎。
義朗の話がひととおり終わったあと、二人の会話は途切れた。父・正俊が守ってきた診療所のことを思うと、俊郎にとって移転は、なごやかに受け入れることのできる話ではなかった。けれど「移転はやめてくれ」と言うわけにもいかなかった。無言は、その場の空気を重くした。
「では」と、言葉少なに篠﨑家を辞した際、めぐみはつらい報告が終わって、とりあえずホッとしながらも、この話し合いが、随分世話になってきた篠﨑家と物別れのように終わったことが、いたたまれなかった。
2003(平成15)年8月、「澁江整形外科」は新築移転を果たす。継承開業して以来、時には一日の外来患者が200名を数えることもあった。それは患者さんに一心に向きあってきた義朗と、支え続けためぐみの努力の結果であった。
しかし、診療所を新築移転して、わずか3年のこと。
義朗の身体が「がん」に侵されていることが発覚する。すい臓に発症した「がん」は、早期発見が非常に難しいうえ、進行が早いという特有の性質が災いして、見つかったときには、すでにかなり進行していた。
医師であるがゆえに、病状が何を意味するかが義朗にはわかった。けれど、詳しいことはスタッフにも知らせぬまま、診療を続けた。亡くなる1週間前まで…。外から見る限り、義朗の病状が深刻であることは、誰にもわからなかった。
夏には、好きだった水泳にも出かけるなど、普段と変わらない暮らしぶりが、そうさせた面もあった。何よりも日々、患者さんに向きあう彼の姿が、身体が病にむしばまれているということを、まったくと言っていいほど感じさせなかった。だが、「どうか悪い夢であってほしい」と願うめぐみの思いはかなわぬまま、医師・澁江義朗は、54歳という若さでこの世を去った。
「私に看病さえさせてくれずに逝ってしまった」
めぐみは、深い哀しみに沈むとともに、茫然としていた。
「でも、それ以上に彼はどれだけつらかっただろう。最愛の娘たちに別れを告げなければならなかったのだから。娘たちのために、これからは私ががんばらなければ」
しかし、これまで診療所の経営については、すべて義朗がおこなっていたため、めぐみは何から手をつけてよいのかさえ見当がつかなかった。
まもなくして総合メディカルに、問い合わせが入った。
「診療所を引き継いでいただける先生を紹介してほしい」というものだった。医師の紹介を希望しているのは、福岡県うきは市吉井町の整形外科ということだ。
エリア担当である安東紀朗(あんどうのりお)が、この事案を扱うこととなった。
創業から28年を経て、総合メディカルは社員数2,100名を数え、調剤薬局「そうごう薬局」も200店舗を超えていた。DtoDも順調に成果を挙げ、2006(平成18)年当時、DtoD登録医は5,300名を超えていた。
安東はDtoD登録医の中から、開業希望の医師を選択し、さらに診療科目および開業の希望地で絞り込んだ。するとパソコン画面には6名の医師が表示された。
まずは、継承候補となる医師が6名いることを、依頼をいただいた澁江めぐみに伝えた。建物は築3年、当然医療機器もほぼ最新で、開業希望の医師にとって、魅力的な継承物件だった。
安東は候補の医師について、誇張した表現をしないようにしてきた。知り得たあらゆる情報を整理して、どういう医師なのかを正確に伝える。評価や判断は譲る側にゆだねるというのがポリシーだった。
その後、候補の医師は徐々に絞られていった。
そして、安東も早くから心に決めていた二人の医師の名前が最終候補に挙がった。
「では、このお二人でお話を進めますね」
安東の手応えは、より確かなものになっていった。
成否は、条件面がどれだけ合致するかどうかだ。双方が納得いくまで、丁寧に詰めていくことで、継承はスピーディに進む。
どちらにとっても初めてのことなので、不安や疑問なども少なくないが、それは、次のステップに進むたびに取り除かれていく、はずなのだが…。
めぐみの表情は話が進展するなか、いつまでも晴れないままだった。これまではすべて、ご主人がやっていらっしゃった契約や交渉事に戸惑いがあるためかと思っていたが…。
何かある。安東はそう思った。
「何かご不安な点がありましたら、どうぞおっしゃってください」
すると、めぐみは意外なことを口にした。
「引き継いでいただきたい先生がいるのですが」
その医師は篠﨑俊郎、35歳。
めぐみの夫・澁江義朗が医業継承をした篠﨑正俊の長男で、久留米大学病院の整形外科医とのことだ。そして、この医業継承こそは、総合メディカル初の第三者医業継承であった。俊郎の妻・夏子(なつこ)も整形外科医で、同じ病院に勤務しているという。
めぐみは医業継承の話が具体的に進むにつれ、心苦しく思うようになっていた。「わたしたちが十数年前「篠﨑整形外科」から引き継いだこの吉井の地で、ご子息の篠﨑俊郎先生が開業する日がくるかもしれない」
実は義朗が亡くなってから間もなく、めぐみは篠﨑順子に、「長男である俊郎先生に引き継ぐ気持ちがないか」を電話で打診していた。もしも…との思いで。
「残念ながら、息子たちには、その気持ちはないみたい」
順子の言葉に一度は断念しためぐみだったが、諦めることができなかった。
地元医師会の会長が夏子を知っていると聞きつけて、そちらからも話をとおしてもらった。
夏子からの返事は、「ありがたいお話ですから伝えますが、決めるのは夫ですから」という答えだった。
意を決して、めぐみは受話器を握り、俊郎に直接電話をかけた。
「ご夫婦で、一度、診療所を見ていただけませんか」
俊郎は数日考えたすえ、見るだけならと「澁江整形外科」へ夏子とともに足を運んだ。
診療所は、建ったばかりのように美しかった。院内のレイアウトも実によく考えられていた。そこには、亡き澁江義朗の医師としての夢がデザインされていた。
俊郎の胸には、それまで考えもしなかった思いが込み上げてきた。新築移転には正直、腹を立てていた。けれど「澁江整形外科」を見て、その気持ちが軟化していくのがわかった。澁江義朗が父から引き継いでくれたから、患者さんのために尽くしてくれたから、今があるのだと思った。
そして、3年前に移転をした義朗の心情が理解できた。十分に検討を重ねたうえで、移転を決断したことだろう。父・正俊の頃からの患者さんも多く、父の志を継いでこの診療所で奮闘してきたが、無念のうちに彼は倒れたのだ。
俊郎は確信した。
「父・篠﨑正俊、そして澁江義朗、この二人の医師の志を継ぐべき者は、私をおいて他にはいない」
めぐみは院内を案内しながら、「素敵なご夫婦だな」と感じ、このお二人に引き継いでもらえたら、きっと夫の義朗も喜んでくれるに違いないと思った。
それは、ちょうど15年前に、篠﨑順子が抱いた思いと同じだった。
2007(平成19)年7月、2回目の第三者医業継承が実現。
そして、「しのざき整形外科クリニック」が開業した。
先々代、つまり俊郎の父・正俊の時代からのスタッフも引き継いでおり、その頃から足を運んでくださる患者さんも多い。地域医療は、しっかりと引き継がれた。
澁江めぐみは、「しのざき整形外科クリニック」の評判を耳にするたび、「あの時、諦めなくて本当によかった」と思う。
知り合いのいない地で暮らすことになってから、何かと助けてくれたのは篠﨑順子だった。「娘の幼稚園の送り迎えまでしてくださったこともあった。家族ぐるみで、親戚同様に、いや親戚以上によくしていただいた」
澁江めぐみの篠﨑順子への感謝の念は、途切れることなく続いている。
篠﨑俊郎に譲ったこの診療所は、設計の段階から夫の隣でめぐみも一緒に検討し、待合室のインテリア選びもした。彼女にとっても、思い入れの深い大切な診療所だ。
しかし不思議と、自分から遠い存在になってしまった気はしなかった。
「順子奥さまへの感謝の気持ちは計り知れません。お預かりしていたものを、ただお返ししただけですから」
「篠﨑整形外科」から、「澁江整形外科」へ。
そして「しのざき整形外科クリニック」へ。
めぐみの思いは、この三代にわたる継承が、「運命の継承」 であったことを物語っている。
そしてこれは、医療をつなぐ総合メディカルの、明日へと 続く物語である。
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